2013年8月24日土曜日

グルスキー展を見てきた

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国立新美術館のアンドレアス・グルスキー展と写美の米田知子展を見てきました。
ドイツ写真にはよくあるというか、グルスキーは「ベッヒャー派」です。
しかも、第一世代とのこと。
トーマス・ルフもそうですが、高い値段で取引される作家です。
「ベッヒャー派」というだけでお値段がつり上がっているような気がしないでもないですが、それが現代美術の世界というか、美術の解釈なのでしょう。
真を写すと書く「写真」というイメージとは違い、グルスキーはがっつりと加工しています。
スティッチングで貼り合わせるだけでなく、あったものを消したりも。
スティッチングも綺麗にパースを合わせるわけでなく、微妙におかしいところもあり、「真を写す」写真とはかけ離れていますが、写真機を使ったものではあります。
日本の写真家は自分の作品を美術館に展示するか・しないか、みたいな事を考えることがあるようですが、大違いです。
アメリカはまだスナップ的なものもあり日本の写真に近いものもありますが、ベッヒャー派が跋扈するヨーロッパは現代美術的な感じです。
グルスキー展ですが、どかーんと大きいのを中心に案外小さいのまで様々。
新しいものほど大きいのかというとそうでもなく、新しめでも小さめのもあります。
1990年代の作品もありますが、プリントは作りなおしているのでしょうか。
展示リストに記載された年は撮影した年なのか加工した年なのかプリントした年なのかわかりませんが、たぶん撮影された年なのでしょう。
エディションの管理はどうなっているのかわかりませんが、何度か加工やプリントを繰り返して行われていて、展示されているものは1990年代の作品でも今の解釈によるものなのかなぁという感じがしました。
逆に、古い作品をそのままというのも。
技法としては写真を使っていることや、がっつり加工をしている事もあり、作品には一回性というものが無く、いくらでも新しい解釈を盛り込み作りなおすことができるわけですが、実際のところどうなっているのでしょうか。
ネガから焼いたプリントでもそれは同じわけで、森山大道の有名な犬の写真は頭が右なのか左なのかどちらが正しいのかわからないくらいで、グルスキーみたいに加工しなくても写真にはいつでも作りなおすことができるわけですが、加工して作り上げているという事を考えてしまうと、なんだか気になります。